私は農家の十男。きょうだい全11人の末っ子。長女が生まれて以来、男が十人、私はそのトリ。今なら「テレビ番組の大家族特番」だ。姉兄とは母親父親ほど年齢が離れており、すでに上8人は黄泉に旅立った。

進学時の申請書や会話の時に「十男」と知った時の相手の反応が一番興味深かった。ニヤっとする先生や友達が多かった。「お前んとこ、にぎやかでいいなぁ」と羨む人もいたがそれは少なかった。もし両親が「もう子供作りはそろそろ」と理性的?な判断した折には、今のボクは存在しないので改めて両親に感謝、感謝だ。

昭和23年(1948)暮れ瀕死状態で産まれた。「産めよ増やせよ」の時代から戦後まで産み続けた40歳の母体は耐えられなかったのだろう、羊水が流れ、産声も出なかったという。命はなんとか一週間持ち命名の日、祖父が「顔はあんまり可愛くない(いらぬお世話)し、もし生きたとしてもまともに育たないだろう。しかし、最低限、自分の誕生年ぐらい言えなければ。昭和23年だから「和二三」・かずふみ・でどうだ」と提案した。何ともいい加減な命名だが事実そうなった。

出生届け役の叔父に窓口の人が「和二三」では可哀想です。読みは「ふみ」なので「文」にしたらどうですか」と進言、そして戸籍は「和文」になった。父親の承諾もえずOKした叔父も叔父だが変更させた窓口も役所らしからぬ“越権”だった。

 問題は「和文」になった事を肝心の本人に知らせていなかったことだ。当然、自分を「和二三」と信じ小学校に入学した。1年生の1学期の終業式の日。

「吉原君、どうして自分の名前をいつも真面目に書かないの?」と担任女先生。
「えっ?和二三と書いとるけぇ、なんでいけんの」
「あなたの名前ここに書いてありますよ」

先生からもらった通信簿の名前欄を指差した。「和文」とあるのを見て本人は目を丸くした。

「先生、これが僕の名前ですか」
先生「そうだけど・・・・・?え“っ~~ッ?なんで――っ」

今度は先生が目を丸くした。

短い命だろうと思った子が無事に学校に入るまでになったことに産婆さんはじめ親族や集落のみんなも驚いたという。だが自身の正式な名前を知った時の驚きはその比ではなかったと自分では思う。

  (吉原和文)